ketaの日記

出歩こう、未知の体験しよう

歴史博物館訪問記:縄文時代から戦後への旅 #歴史 #日本史


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(入り口でお出迎え。何とかレンジャーみたい)


【休日おもろいこと探し及びアウトプット運動2024①】

 

【感想】

2024年3月16日 千葉県佐倉市 国立歴史民族博物館を訪問しました。

 

新宿〜船橋の電車1時間、船橋京成佐倉~博物館(電車+歩き)1時間の計二時間程度で到着します。余裕の日帰りで行けちゃいます。

 

13時に博物館に入り、展示物を見ながら回ってたら、結局17時の閉館まで滞在してました。日本の歴史を縄文から戦後まで、様々な図表や資料、再現模型等を用いて一気通貫で展示しています。

私の日本史知識は中学生レベルなので当時のモノを淡々と展示されると何も引っ掛からず「ふーん…」となってしまう恐れありなのですが、歴博は「年代順に展示が進むこと」「現物展示だけでなく、年表や地図、グラフ等の歴史の説明が多いこと」から歴史の流れを追いやすく、面白かったです。

 

1先史時代~6戦争と平和(大戦~戦後)まで部が分かれており、ひとつの部で各一時間ぐらいかかりました。なお5の近代は訪問時点では改装中につきお休みでした。明治維新とかその辺と思われ面白そうなので、また来たいですね。

 

「16世紀の京都を描いた洛中洛外図屏風とあるが、何故その時期の京都なんだろう?」「江戸幕府はなぜ鎖国したんだろう?」、新たな疑問も湧いてきました。また調べたい。

 

【詳細】

1 先史時代

縄文時代
 ・当時の人々の生活を再現した等身大?模型があった。女の子の顔がかわいい、堀が深く欧米っぽい。縄文人は丸顔で堀が深く、筋肉質で手足が長かったそう。これを見るとコーカソイドとかそっちぽい特徴に見える。本当にこんな顔だったのだろうか?


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(幼女と幼女を見守るおじさんと幼女を撮るおじさん(私))


 ・食材のイメージ展示、デカイ魚が旨そうである。パンみたいなものがある、この頃に日本に小麦はないような。何の生地なんだろう?

 ・縄文土器は思ったより複雑で怪し気なデザインだった。呪術的というか。ゼルダの伝説トワプリミドナが被ってる謎の物体みたい。
 ・と思っていると「縄文時代は本格的に定住化が進んだことで人口密度が上がり、揉めごとがふえ、解決のために呪術が栄えた」旨の説明書きが。なるほど、縄文土器はきっと呪術にも使われていたのだ。祈祷師みたいな人が短冊みたいな棒を振り回す時に、縄文土器も横に置いてあったのだろう。知らんけど。

 

弥生時代 BC10C~AC3C

・BC9C頃までは武器は発掘されてないそう。比較的平和な世界だったのだろうか。なおBC9Cから見つかる武器も鎧も木製+石器である。室伏広治とか吉田沙保里ならまだ生身で勝てるのではないか。

・BC4Cには鉄を求めて日本人が朝鮮に渡ってる説があるそう。弥生土器が朝鮮の鉄器関係の土地で出土している。当時の船はどんな船なんだろうね?

ちなみに鉄の使用を始めた中央アジア?のヒッタイトはBC2000年頃とか、もっとずっと古くから鉄を使用していたらしいので、BC4Cに朝鮮で鉄が使われてても不思議はない。


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弥生時代初期の戦闘は石器+木材?)

 

3-5c 古墳、王の時代

前方後円墳とかその辺。あまり興味が出ない。Qちゃんの画像でも貼っとくか。ひみこさまー!

・この辺で気づく。あまり丁寧に見て回ると興味がある中世以降に時間と体力が残らない…!そのためこのあたりはショートカット気味に回った。

 

7C 古代国家

・中国では唐が栄え、周辺国との交流が増える。日本にも高句麗百済を通じて律令制などの文化が持ち込まれ、道路や役所の整備はじまる。

 (高句麗百済律令制とは?)


・8Cには大宰府、秋田のじょうさくまで古代国家がのびている?広い。そんな広域を支配できたのか?平安京
正倉院文章?で税収を管理するための戸籍や、各種帳簿がある。文官が文章を書いてるイメージ展示の内容は、「待遇改善要求」であった。今も昔も変わらない。少なくとも文書で上申出来る体制だったのだろう、文句⇒ 即排除みたいなガチモンのブラック企業より働きやすそうだ。

平安京はいまの京都御所の二キロ西にあったそーな。


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(やっぱりこう言うのは匿名で書いてたんだろうか)

 

2 中世 10-16c
・漢字から派生した各時代のカタカナのリストが展示されている。結構現在とおなじ形のがある。いまは英語がカタカナで書かれるからカタカナの方が新規な感じがするが、実際は平仮名よりカタカナが先輩。1000年もつかわれている。

 

鎌倉時代
・九州から尼崎までの航路の横に船の模型があった。木製の屋形船みたいなやつで、本気の交通手段とするにはしょぼく見える。観光でご飯食べに乗るなら風流でいいが、本気で海に出られるとあんまり乗りたくない。
・武士の家の展示も、藁葺き?の屋敷の周りに庭と木製の柵しかなく、なんか弱そうである。すぐに攻め込まれそう。石垣は14Cの沖縄グスクが最初の導入とのことで、鎌倉時代にはまだなかったのかな?土壁とかも。

・鎌倉の当時の地図があった。鶴岡八幡宮の右隣に幕府がちゃんとあったらしい。現代の鎌倉はアホほど混むしなんかキャピキャピ感が強くて陰キャのワイは辟易したのだが、過去はちゃんと幕府があったことが分かり安心した。

 

洛中洛外図屏風
・16C京都の嵐山~上京~下京~比叡山までを屏風にかいたもの。
・このへんの歴史がわかっておらず、鎌倉時代って鎌倉じゃないの?なぜ京都?となっていた。
⇒1336京都の室町幕府となっている。鎌倉幕府は何故潰えた?

 

※室町の足利義光のころ、明の永楽帝日本国王に報ぜられ、日明貿易朝貢?)をしている。各国の朝貢回数が地図上に図示されていたのだがこれが興味深い。琉球171回が朝鮮も抜いてぶっちぎりの一位の朝貢数だ。一方で朝鮮30回と予想より少ない。朝鮮は明大好きな優良朝貢国のイメージだったので意外である。ちなみに日本も19回朝貢していた。日本は中国から見ると「朝貢もせずけしからん国だ」と思われてるイメージだったので、19回も朝貢行ってたのも意外。

 

 

・1467応仁の乱 家督争い、政権争いなどが拡大。戦場となった京都は荒廃し、室町幕府の権力が低下、戦国時代へ。

 

15-16Cは世界はポルトガル・スペインの大航海時代。1494年には「世界のここからこっちは俺(スペイン)、ここからこっちはお前(ポルトガル)のものな」というジャイアニズム満点のふざけた条約まで結ばれている。

日本では戦国時代にあたり鉄砲などを輸入。広く普及したのは信長の統一後らしい。

戦国時代の甲冑が展示されている。甲冑は当時の主要武器を反映しており、鉄砲がある戦国時代では重厚な鉄板仕立てである(弥生時代は武器がしょぼいので鎧も木片だった)。


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(戦国時代の甲冑。重そうだが銃弾が飛んでくるから仕方ない)


※スペイン・ポルトガル教皇から布教のお墨付きを得て植民地の拡大を進めていた。
※豊臣は体外は強硬(朝鮮遠征)、徳川は友好の方針だったそう。戦国時代の終わりから20年もすると、遠征で荒らした朝鮮との国交も回復していた。江戸幕府は当初朱印船貿易を行ってた。朱印船はさっき観た日本鎌倉時代の船とレベチ。大型でどっしりと安心感がある。長距離航海も耐えそう。

江戸幕府は友好的方針とか朱印船貿易とか、あれ、鎖国は?
⇒途中から鎖国に切り替えたのだろうか。調べると複数説あるみたいだが、キリスト教は平等を説き、幕府の身分制の脅威になる恐れ、というのはそれっぽい。貿易コントロール?活発化してた外国からのアプローチから国を守るためとも。外国との付き合いが深まるにつれ、これらの懸念が高まったのであろうか。

※スペインポルトガルは何故アジアはすぐ征服しなかった?アフリカやアメリカはバンバン植民地化されてたのに、何故日本はまぬかれた?武力?ペリーがきたが、結局直接攻められてない・・?

⇒聞くところによると、19世紀に産業革命を経たイギリスが圧倒的パワーで暴れ回るまでは、ヨーロッパは結構田舎者の時代遅れみたいなも様子だったらしい。11世紀以降ヨーロッパからアラビアに派遣された十字軍も、イスラム側からは「なんかきたねぇ田舎者が来たぞ」みたいな反応があったとかなんとか。オスマンイスラム各国、アジア諸国はヨーロッパから見てそう容易く侵略出来るパワーバランスではなかった。
※てか西欧の植民地政策やばくね?どこが主権国家体制じゃい。他国に干渉しまくりのジャイアンやろ。


第三 近世
江戸幕府
・200年、国内外での戦争なかった。
・幕府はキリスト教を禁じ、貿易を統制した。
 
国交(鎖国と言っても国交あったと強調されてた)
朝鮮通信使 江戸庶民にとっても騒げるおたのしみイベントであった。朝鮮通信使を見に神田川?に小船を出す庶民の絵が残っている。
琉球を 1609年に薩摩藩が制服。外国情報とりのために中国朝貢をしているのは幕府は黙認。

・江戸はやはり歌舞伎や軽業など文化の展示が多い。軽技とか俄に信じられない。
自由貿易の外国からの圧力から本居宣長平田篤胤神道天皇ガチ勢が生まれてたみたい。ピキってる印象。

 

第四 民俗 猟とか農業とか痩身願望とか牛頭?祭りとか河童とか。あまり興味がない。それよりも歩き疲れた。ボリューミーすぎる。

 

第五 近代 改装中。見たかった。

 

第六 戦争と平和

明治になり、軍備の担い手は身分制度の武士から国民皆兵の兵士へとかわった。徴兵制は義務であり苦役だが、誇りとするような社会的な雰囲気が造られていった。

 

内務藩という部屋に20人ぐらい(分隊)で生活していた。完全武装姿の展示がある。これって布の下に防弾とかあるのだろうか。撃たれたら終わり?


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(完全武装日本兵。勇ましい)

 

38式歩兵銃の展示は持ち上げることができた。四キロ弱、意外と軽い。

 

大まかな歴史の流れ
1894日清 旅順
1904 日露
1910韓国併合
1919ごしじけん(反日、21ヶ条反動)
1929世界恐慌
⇒1931満州事変
⇒1937日中戦争
 ※多民族をも支配するのが帝国なら、戦前日本はまさに帝国であったとのこと。日本帝国は植民地とした地域へ人を送り移住が進んでいた。正直最近まで日本帝国のことをよく理解してなかった。日露戦争後ぐらいからは、しっかり侵略者だった。


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(帝国ってどこかと思えば日本のことであった)

 


 ※歴博の場所にかつてあった千葉の佐倉連隊も、この頃は満州を警備してた。
 ※南京事件。かなり保守的であろう国立の博物館でさえ、南京事件があった事実は否定しない。かなり酷かったのだろうと思う。
 ※中国の抵抗激しく泥沼化、長期化。米英との対立悪化。燃料輸入が泊まり、南方の資源地帯への進出へ進む。
1941奇襲により、アジア太平洋戦争勃発
1942ミッドウェー以降は敗戦続く
1944レイテ@フィリピン アメリカと戦闘。壮絶な映像を見ることができる。雨のような艦砲射撃。これは助からん。印象に残った。

 

1945沖縄戦

・フィリピンレイテ戦と同様映像があり、これまた凄まじい艦砲射撃を受けていた。雨のような砲撃により地形が変わったとの説明書きも。
・民間人の犠牲が目立つ。米軍に投降を呼び掛けられ、民間人が集団自決した。日本軍指示で疎開した先の山奥がマラリア地帯で、3000人が熱病により亡くなった。

1945.8原爆投下。
・原爆投下前後の上空写真がある。建物がなにもなくなっている。建物では防げない(長崎は山が遮蔽になり、広島よりは被害が少なかったそう)。逃げ場などないことがわかる。長崎広島あわせて20万人超が亡くなった。
浦上駅ホームの母子の遺体の写真。子供は本当に赤ちゃんである。最初は怪我で倒れているだけかと思ったが、遺体だった。白黒で見えずらいが、顔面の形状がつるんとしていた。大変な火傷の跡と思われる。見ていて辛い。


1950朝鮮戦争
・日本は再軍備

1954.第五福竜丸事件

ゴジラ上演 10年前の空襲と原水爆への恐怖をゴジラとして体現

1955.原水爆禁止大会@広島

1972沖縄本土復帰 戦後もアメリカ占領が続き、72年の返還であった。知らなかった。

 

戦後
・食糧難、配給不足⇒収入を得るための闇市が栄える